辰巳家の食卓

  1. HOME
  2. 連載
  3. 日本にこんな方がいたなんて 文・対馬千賀子

はじめに
Introduction

日本にこんな方がいたなんて 文・対馬千賀子

モリエールを目指したころ
 私は海の近くの自然豊かな小さな町で育ちました。部屋からは海の音が聞こえ、小さなころはよく浜辺で遊んでいました。
 中学高校時代、料理に興味はありましたが決しておいしいものがつくれるということはなく、得意ではありませんでした。「おいしい料理がつくれる人」になりたいと思い、高校卒業後は札幌にある料理の専門学校へ進みました。専門学校に通いながら友人とふたり、ホテルの厨房でアルバイトを始めました。アルバイト先の料理長から「卒業後はうちに就職するんだよね」などと声をかけていただきました。友人はそのまま就職しましたが、私は学校の研修でうかがった、札幌にあるフランス料理店モリエールで働きたいと思うようになっていました。いま思えば、モリエールを目指したあの時、私の前に辰巳家へつながる細い道が現れたのだと思います。
 就職活動中、モリエールの中道博オーナーシェフと面接することはできたのですが、「心身ともに負担が大きい職場だから、いまは女性を雇う予定がない」と、採用を断られてしまいました。その後、中道シェフから「ホテルの料理長を紹介しよう」と提案をいただきました。すでにホテルへの就職採用期間は過ぎていましたが、料理長にお会いした日にホテルで働かせていただくことが決まりました。そしてそのホテルで3年ほど働くうち、別の環境を求める気持ちが強くなっていきました。ホテルを紹介してくださった中道シェフに退職の挨拶へうかがうと、「それならうちで働いてみる?」と言葉をかけてくださいました。こうして、念願であったモリエールで働けることとなったのです。
 初めは系列店に3年、そこからモリエール本店に移って2年。働き始めるとすぐ、私は自分が「何もできない、全くできない」ことに気づかされました。働き手が少ないレストランでの仕事は、個人個人の能力と、最もよい状態で提供するためのチームプレイが求められます。料理を仕上げる速さやタイミング、呼吸がそれまでの仕事とは全く違いました。いろいろなことができない自分にとって、毎日が本当に大変でした。そう、まさに修業の日々……。
 モリエールでの修業の日々は、振り返ると充実した時間でした。ただ、入店から5年、私はモリエールを辞める決心をします。退職を決めた最大の理由は、レストランで供する特別な料理だけでなく、根本的な日常の家庭料理をきちんとつくれるようになりたいと思ったことでした。
辰巳先生との出会い
 中道シェフは、モリエールを辞めると決めた私のその後を心配してくださいました。「辰巳芳子さんという料理家がいるから、その方のところで働いたらどうだろう」と提案してくださったのは、中道シェフです。当時の私は恥ずかしながら、辰巳芳子先生(私にとっては先生なので、今後も先生と呼ばせてください)のことを全く存じ上げませんでした。多くの著書があることを知り、書店で手に取ったのが『手しおにかけた私の料理 辰巳芳子がつたえる母の味』(婦人之友社/辰巳浜子著・辰巳芳子編)だったのです。
『手しおにかけた私の料理』を読んだ時の衝撃は、いまも忘れません。辰巳先生が母である辰巳浜子先生の料理書を再編集した書籍ですが、そこには「だし」「汁もの」「蒸しもの」「煮もの」「焼きもの」「揚げもの」など200を超える家庭料理の、素材選びや調理の方法が書かれていました。前書きには「昭和35年、この本の初版がされます時、母浜子は、至って自然に、しかし実感をこめて『手しおにかけた』という言葉で題を決めました。(中略)『深い愛情の積み重ねを日々の生活に忠実に行う』__手しおにかける__とは、心を手足に添わせ、自己を励ましつつ生きる人の姿を、日本の暮らしのうちに、ありありと重ねて表現した、地に足のついた言葉だと思います。」とあります。
 私は、日本に辰巳先生のような方がいたことに驚かされました。その書籍には、モリエールを辞めた後、学びたかった料理の数々が掲載されていました。日常の家庭料理を、基本に忠実に、丁寧に、きちんとおいしくつくれる人はそう多くありません。私も書籍に載っている料理を、きちんとつくれるようになりたい、強く思いました。
初めての面会
 鎌倉にある辰巳先生のご自宅を初めておうかがいしたのは、2000年のことです。中道シェフの友人である齋藤壽『料理王国』元編集長の紹介で、齋藤元編集長、中道シェフ、私の3人でうかがいました。私は内弟子としてすぐ先生の元で働きたかったのですが、当時の辰巳家には家中の仕事を請け負う方がいて、会ったばかりで素性もよくわからない私の居場所はありませんでした。ただ、哀れと思われたのか辰巳先生は、「大分に由布院玉の湯という宿屋があるから、そうね、その厨房で2年ほど働かせてもらって、スープ教室がある時だけ鎌倉へ通わせてもらったら?」と提案くださいました。
 玉の湯には辰巳先生と親交の深い山本照幸総料理長がいて、それから2年、鎌倉のご自宅でスープ教室が開かれるのが土曜日なのにもかかわらず、毎月のように通わせていただきました。ありがたい待遇でしたが、スープ教室当日の辰巳先生は多忙で、簡単にご挨拶をして教室で講習を受けるだけのつながりしか持つことができませんでした。
辰巳家の内弟子となる
 玉の湯からスープ教室へ通い始めて2年、私は玉の湯を辞めることになりました。中道シェフの紹介で京都に新しい職場が決まりましたが、玉の湯を辞めてから京都の職場へ移るまで、数か月の余暇ができました。玉の湯を辞める少し前、辰巳先生が玉の湯に宿泊する機会がありました。新しい職場は決まっても、辰巳先生の元で学びたいという私の気持ちが消えたわけではありません。思い切って宿泊している辰巳先生の元へ行き、「京都へ移るまでの数か月だけでも、先生の料理を学ばせてもらえませんか」と、お願いしてみました。
 すると辰巳先生は、こうおっしゃいました。
「京都……あそこは人間関係が難しいところだね。うーん、うちで一年くらい働いてみるかい」
 この時から、一年どころで終わらなかった辰巳先生と私との、長い同居生活が始まったのです。
日々の献立の記録
 鎌倉のご自宅で辰巳先生との生活が始まると、料理を学びながら朝昼夜の食事をつくるのが私の仕事になりました。いまは男性も女性も、家族のある方も単身の方も、時間をかけて料理をつくる人が減りました。料理をつくると何がよいのか、それは料理をしている間は無心でいられることかもしれません。どうおいしくつくるのかにだけ気持ちを集中させると、自然と他のことを考えなくなるものです。
 料理の出来を左右するのは食材です。食材選びで7割が決まります。旬の食材を選び、自分よりも食材の都合に寄り添い、無心につくれるようになれば料理が楽しくなります。辰巳先生も「ものに合わせよ、食材にやさしく」と、ことあるごとに繰り返しています。
 2009年から2010年にかけて私は、辰巳家で一年間につくった献立を、すべて記録しました。当時、辰巳先生は85歳前後、量は多くありませんが、朝昼夜とさまざまな料理を召し上がっていました。それは白寿を前にしたいまも同じ、食事を楽しまれています。
 その辰巳家の食卓の記録から、季節ならではの料理をいくつか、ここに紹介することとしました。日々、辰巳先生の力となり、日常を支えた料理の数々です。何かひとつでもお役に立つことがあれば幸いです。生きてゆきやすさの一助となりますように。
  2023年4月